企業 株式会社橋本道路
ジャンル 建設業
従業員数 100人(震災当時)

SDGsアウトサイドインカード・社会課題49の「震災がれき処理と復旧の課題」の事例で登場するのが、「東松島方式」として知られるリサイクル方法です。東日本大震災時に、民間主導で被災者の雇用を図りながらリサイクル率97.6%、がれきを他地域に持ち出すことなく、かつ処理コストの縮減を果たしました。

市長とともに、その陣頭指揮を執ったのが株式会社橋本道路代表で、東松島市建設業協会会長の橋本孝一さんです。

東日本大震災で東松島市では、通常の100年分に相当する約326万トンの震災廃棄物が発生。うち、震災がれきが109万8,000トン。

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、各地に甚大な被害をもたらしました。仙台から東に30kmに位置する宮城県東松島市は、人的被害1,131人(死者1,105人、行方不明者26人/全住民の約3%)、市街地の65%(全国の被災市町村中最大)は浸水地域に、家屋被害は全世帯の約73%(全壊・大規模半壊・半壊世帯)という惨憺たる被災状況でした。

発生した震災がれきは1日で約326万トンで、通常時の100年分以上に相当するという状況に陥ったのです。そのうち震災がれきが109万8,000トンで、これを、なんとリサイクル率97.6%で処理するのです。東松島市では次のように公表していますので、想像してみてください。

東松島市の「がれき処理」の効果・効能

  • 全搬入量の約97%以上をリサイクル
  • 処理コストの削減
  • 3年間で想定費用(復興予算)から、208億円を縮減

(※市建設協会所有の機械活用、鉄アルミ等の売却など)

被災者雇用に貢献。
処理全体で1,500人、リサイクル関連で約800人の被災者雇用を実現。

  • がれきは市内でほぼ完結
  • 他地域(遠距離)搬出の必要がなく、市内で処理し再利用

リサイクル率97.6%は、なぜ、実現できたか。

大震災発生日の夕方、市長から「橋本さんできますか」と打診が。
「できます。始めましょう」と即答、国の指示を待たず震災翌日に着手した。 

過去の災害時の教訓から、来たるべき災害に備え、東松島市は2005年(平成17年)7月に、東松島市建設業協会と独自災害協定を結んでいます。災害があったときは、建設業協会に事前協定に基づき、市長が協力要請するというもので、手続きや経費の負担などからなります。

震度5以上の地震が発生した場合、市長や建設業協会の幹部らが市の対策本部に集まり、対応を協議することも明記されていました。3月11日14時46分に震災発生、建設業協会会長の橋本さんは対策本部に駆け付け、市長の「できますか」に呼応し、「できます。始めましょう」と即答。「地元にお金を落とすため、地元主体でがれきの処理を行う」ことに決め、同日16時には初動開始。この日から100日間、市長と一緒に対策本部に詰めることになるのです。

がれき処理の陣頭指揮を執るにあたり、橋本さんは建設業協会会員に、「船頭は一人でよいので、私に任せてくれますか。一人でも異論があれば引き受けません。」と確認し、意思統一を図っています。

 

 

東松島市建設業協会会長名で、「現場管理に対する指示」として平成23年3月20日に次の通り指示を出されています。

ガレキ置場の設置について
自然発火防止策として

  • 置場の水はけをよくする。(2%位の勾配とする)
  • 分別を当初から実施する。(19品目別)
  • 発酵熱を防止するため、多孔管を設置する。(臭気防止にもなる)
  • 特にマットレス、布団は完全分別する。(スプリングが発熱する)
  • 乾燥剤等を除去する。(水と反応すると発火するため)
  • 津波ヘドロ混入物は別の置場とする。(離れた場所に独立していないと一番発酵するため)

※必ず厳守のこと

  • その後の処理がスムーズにいく。
  • 選別も楽になる。
  • 通行は全て一方通行となるように管理すること(渋滞解消のこと)、(ロータリー方式)

この指示の徹底が、先述の「がれき処理」の効果・効能を結果として生み出しているわけですが、いくつか、詳細に紹介します。

(1)全搬入量の約97%以上をリサイクル

橋本さんは、当初からがれきの分別処理を徹底しています。平成15年の直下型地震の際、①がれきを分別処理することで、焼却量を減らすこと、②がれきを短期間で処理することの2つに力を入れたそうです。その時学んだことは、初動の指示が、がれき分別処理に大きく影響し、処理費用と、焼却量を増やしてしまうことだったと言います。

その教訓から、湾岸エリアに「仮置き場」を設け、がれきを運び入れます。仮置き場では木材、プラスチック、タイヤ、紙、布、畳、石、コンクリ類、家電、家電4品目、有害ゴミ、鉄類、処理困難物、土砂の14品目ごとに置き場を決め、分別して置いてもらいました。

ヘドロ混じりの混合物はトロンメル(遠心分離機)でがれき類と土砂に分け、さらに機械で分別できない混合ゴミは手選別による分別で19品目(土砂、ヘドロ、解体系木材、自然木、コンクリート殻、石膏ボード、プラスチック類、繊維類、畳、粗大系(ベッドマットレス等)、金属類、家電、ガラス類、小型家電、消火器、油類、肥料、複合素材類)に分けました。

そして、金属類などの有価物は売却、木材などは微生物を使って腐葉土にして埋め立てに活用、コンクリート殻は土木資材として活用、津波堆積物は土砂から石を除いてセメントと混ぜ、再生土として活用と、徹底してリサイクルしました。

“混ぜればゴミ、分ければ資源を産官民(建設業協会・東松島市・市民)の連携でやり遂げたんです。事前の準備により、どの地域でも十分にできる取組です”と橋本さん。

その結果、処理コストを208億円縮減するという結果を生み出したのです。

 

(2)「がれきの山は火災の危険が増す」に備えた火災防止対策

降雨の日は火災の危険が増すことから、有孔管をがれきの山のあちこちに差し込み、熱を逃す方法を採用。それでも火災が皆無ではなく、規模が大きい火災を発見したときは、自ら重機に乗って夢中で鎮火にあたったそうです。

 

(3)通行はすべて一方通行方式(ロータリー方式)を徹底。

東松島市は2005年(平成17年)4月に矢本町と鳴瀬町が合併してできましたが、平成15年の直下型地震はそれ以前の出来事。橋本さんは当時、矢本町建設業協会副会長をしていましたが、それぞれの町が独自にがれき収集、処理に乗り出し、3か月ほどたった頃、手が付けられない状態になったのだそうです。ルールを決めず、分別なしの混載でやったので、道路も仮置き場もものすごく混んだと言います。どのように対策を講じたらいいか、役場から建設業協会に相談が来て、橋本さんが中心となって収集や処理をどうするかという検討に入ったのです。

橋本さんは学生の頃に、東京・夢の島と呼ばれたごみの埋め立て処分場でアルバイトをしていました。1967~68年頃(昭和42~43年)のことです。当時は光化学スモッグや大気汚染の被害が深刻化していました。夢の島周辺はごみを載せたトラックで道路は渋滞、ゴミ捨て場でも渋滞で、お手上げ状態だったのだそうです。場長が可愛がってくれ、「何かいい方法はないか。アンちゃんも一緒に考えてくれ」と誘われ、みんなで生み出したのが、「一方通行方式」でした。ロータリーで一方向に周回する方式を採用し、渋滞が緩和されていったと言います。この体験から得た方策として、東日本大震災時には当初から「一方通行方式」を採用し、混乱なく、スピーディに作業を進めることができたのです。

(4)分別作業には地元住民を雇用。

最終的に手選別で19品目に分別しますが、これは地元の人々を雇用して対応しています。1か月1人20万円の収入を得られるように計画し、一日最多で1,500人、平均して800人から850人が働きました。夫婦で2人で従事すれば40万円です。

このことは仮設住宅で暮らす住民にとって暮らしに張りが出て、仲間とのふれ合いが生まれる時間となりました。

また、失業を余儀なくされた水産業等の従事者には技術取得をして建設業に就職して頂くなどその場限りでない対応を配慮しています。また、地元の商工業をいち早く復興させようと、“必要なものはなるべく地元で買いましょう”と促し、これも浸透していきました。

 

これら全体の取り組みを総称して「東松島方式」と呼ばれています。

2003年(平成15年)宮城県北部連続地震の経験を踏まえ、東松島市建設業協会と独自の災害協定を結ぶ。

速やかな初動を実現した背景には、東松島市と東松島市建設業協会が締結していた「災害協定」の存在があり、その内容も詳細に取り決めていました。“これが一番のキーだった。”と橋本さんは語ります。震度5以上の地震の際はすぐ対策本部に駆け付けるということも決めていたからすぐ向かった。会員からの機械や車両の貸与、人件費などの最低限の単価契約を協定に盛り込んでいたから、協会会員もためらうことなく戦列に加わったのです。

“何か起こったとき、話し合いから始めていたのでは混乱するばかりです。下準備がどれだけできているか重要です。”と橋本さん。その後、がれき処理が終わるまでの期間、対策本部に毎日詰めて、何か起きたときには市長と検討し、その場で即決で指示を出していったそうでうです。“行政と民が両輪となって動いていました。”と言います。“行政と民が両輪となって動きましたよ”と、民間主導の取組みがいかに最短で結果を出すことができるか実証しています。

東南アジアでの災害支援や 海外の研修生受け入れに積極的に取り組む

「東松島方式」が功を奏した東松島市は、震災後JICA等の要請により、その知見と教訓を広く世界と共有しようと様々な活動を展開していきます。2004年12月スマトラ沖地震と津波で被災したインドネシアのバンダ・アチェ市、2013年11月台風ヨランダで被害を受けたフィリピンなど、世界各国から行政官や研究者、NGO職員が東松島市で研修を行っています。研修生の受入れ数は震災から4年で400名を超え(JICA資料による)、東松島市の記録によると2014年度から2019年度までで1,290名(2011年から2013年度までは視察研修受け入れはしていたが、視察者数としてまとまったものがないとのこと)の方々が東松島市で学び、自国に持ち帰って反映させています。

橋本さんは、その研修にあたるとともに、海外の被災地を訪問。台風ヨランダで被害を受けたフィリピンには4年連続訪問し、倒壊したヤシの木の処理や、海水のオーバーフローによる土地の浸食防止、ゴミの分別等の指導にあたっています。

※研修生受け入れのほか、視察は今に続いており、その記録は下記を参照してください。

「世界とつながり地域を元気に~東松島市とJICAの協力」

遭遇した災害での学びを総括して未来に活かす。
「想定外」ということばを使わない取組みを。

大規模のがれき処理施設を作らず、リサイクルする方式をとった「東松島方式」。おそらく他に類を見ないと言われるこの民間主導の取組みは、私たちに実に多くの気づきを与えてくれます。

「徹底的に安価な方法で行こう。そのためには分別ありきだ」との決断が、住民の雇用を生み出し、仕事を失った住民を新たな仕事の従事に導きながら進められた「東松島方式」。

過去の災害時の課題から、解決策を導きだし、行動レベルまで落とし込んだ「災害協定」。

お話を伺って、「想定外」はないのだ。その前に十分に考えたか、関係者で共有しているか、いざというときすぐ動ける準備と体制ができているか、リーダーシップを発揮できるか、などの言葉が頭をめぐりました。

すべてを「想定内」とする心構えと行動が必要であることを、橋本さんは教えてくれています。

 

東松島市公式ホームページ:https://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/

※東松島市は、平成30年(2018年)6月15日に「SDGs未来都市」として選定を受けました。